「大徳寺」戦国の香りがプンプンするお寺。千利休とガラシャの無念。【2025京都旅-10】

ジャスミンKYOKO

こんばんは、ジャスミンKYOKOです。

世界遺産の仁和寺をタトゥー男子やインスタ団子と共に堪能した後、一行は「大徳寺」に向かった。

市バスの59番で仁和寺にんなじの前の「御室おむろ」バス停から乗り、「金閣寺道」で下車。

金閣寺近くはやばいほど外国人がいっぱい!!!その「金閣寺道」のバス停から市バス205番に乗り、「健勲神社前けんくんじんじゃまえ」で下車。(所要時間21分)

「健勲神社前」から「大徳寺だいとくじ」まで徒歩3分。

大徳寺近くは「納豆」が名物らしい。↑素敵な納豆やさんがあった。

ブログを書くために調べてみると「大徳寺納豆」って普通の納豆の風貌じゃないみたい。

ここは宋から帰られた一休さんにその秘伝の方法を聞き、お店の名前も「一久(いっきゅう)」と付けてもらったらしい。 

室町時代からのお店・・500余年・・・。

普通の店の雰囲気で、やはり京都、すごすぎる・・。一休宗純いっきゅうそうじゅんかあ。

思わず納豆屋さんの歴史におののき、長くなったが笑、「大徳寺」の門。

ここは敷地がものすごく広いみたい。

↑大徳寺自体が色んな建物や寺院の集合体のような感じで、他の寺社仏閣とはちょっと雰囲気が違う。

仁和寺の近くになんかないかな、と選んで来てみたけれど。

この門をくぐると砂利が敷き詰められた直線の長い道がある。

京都の女子高生はここを自転車で駆け抜けていた(い、いいんだ。京都女子すごいな)。

やはり「金閣寺」に比べるとマイナーなのか、人が少なくて嬉しい。

↑大徳寺内、「龍源院りょうげんいん」。美しい苔が有名な塔頭たっちゅうらしい。

※塔頭・・・独立した寺院のこと。

大徳寺には24の塔頭があるらしく、拝観料はそれぞれ観たい場所で払うというスタイル(大徳寺の門をくぐったところで徴収されない)。

ほんとだ、苔が美しい。新緑の頃に来るのもほんと、いいな。

「龍源院」は豊後(大分)の大友義長(キリシタン大名で有名な大友宗麟の前々当主)が建てたらしい。

嬉しくて写真をいっぱい撮って受付に行くと、なんともう閉まっちゃうんだって!そんなあ。

確かにバスを降りたのは15時過ぎ。

「龍源院」は16時までなんだって。そっかー、寺巡りは時間との勝負だなあ。

↑龍源院の書院。

「龍源院」は枯山水かれさんすいのお庭や、「狩野探幽かのうたんゆう」が描いた達磨だるまの絵があったみたい。いつかはリベンジしよう。

1つめから締め出されたので、ああ、もうきっと全部だめだなと、塔頭見学は諦め、大徳寺の雰囲気を味わうことに切り替えた。

大徳寺の「勅使門ちょくしもん」(天皇の勅使しか通れない門)。

これは京都御所の陽明門ようめいもんを頂いたらしい。

大徳寺は「臨済宗りんざいしゅう」の「大徳寺派」なんだって。

↑大徳寺の山門さんもん金毛閣きんもうかく)。山門は応仁の乱おうにんのらんで焼失していたのを、利休の勧めで秀吉が信長の菩提ぼだい弔うとむらために建てられたもの。

ここに利休が自らの像を立てたという理由で、もともと折り合いが悪くなっていた豊臣秀吉から切腹を命じられたのよね・・。(秀吉がこの門をくぐる時に利休の像が秀吉を踏みつけているように感じたため)

↑山門を横から観たところ。

大河ドラマ「独眼竜政宗どくがんりゅうまさむね」でも政宗(渡辺謙)が「あの像は、(秀吉が)天下人になる前から建てられていて利休どのが、太閤たいこう(秀吉)に盾突く意味に取るなどありえない。」と家康(津川雅彦)にグチる場面が出てきたもんね。こじつけだよね!

↑樹齢350年の大徳寺のイブキの幹。太い!!1665年頃は江戸時代、4代将軍の頃なので、この木は秀吉と千利休の争いは観てないな。

無学の秀吉からすると、最初は茶の湯を習ってたお師匠だったが、もしかしたら千利休の文化人からの上から目線にムッと来たのかな、やはり天下人、職権乱用しちゃったね。

像を建てたいざこざの前にも秀吉と利休の間は問題が多かった。

利休のお気に入りの茶碗を献上せよと言い断られたり、利休の娘を側室に差し出せと言って、娘は断った後父のためを思ったのか自害したり。

上から目線にムッと来たとしても秀吉の方が圧倒的に悪いよね。

この器を隠したとされる「聚光院じゅこういん」(これも大徳寺)はこの時、チェックできなかったのよね(利休のお墓もある)。

↑仏殿。本尊ほんぞん※の釈迦如来しゃかにょらいが安置されている。

※本尊・・そのお寺の信仰の対象のこと。

小田原おだわら城主が建てた。小田原城主と言えば、北条早雲ほうじょうそううんだけど、これを建てたのは江戸時代になってからの城主、稲葉氏らしい。(北条氏は小田原攻めで滅びたからね泣)

↑「名月橋めいげつきょう」と呼ばれる、法堂はっとうと仏殿を結ぶ橋。

法堂はっとう。かつて禅問答が行われた場所。

天井には、狩野探幽かのうたんゆうが描いた「雲龍図うんりゅうず」があるらしい。

入れないけど、「石田三成いしだみつなり」の墓がある、「大徳寺三玄院だいとくじさんげんいん」。

大河ドラマ「独眼竜政宗」では、石田三成を奥田瑛二が演じてたね。

石田三成みたいに夏の暑い日にお茶を温度を変えて三度淹れたりなんて今は出来ないね(まっすぐ冷たいの飲む笑。冷蔵庫ありがとう)。気が利く人だったのね。

彼を魅力的とは思ったことないけど、最後まで太閤への恩を忘れないのは素晴らしい。(勘違い人間もたまにいるからね笑)。

小早川秀秋こばやかわひであきとか言語道断!(関ヶ原の戦いで徳川に寝返った)真田幸村さなだゆきむらを見習いなさい!!(幸村好き)

まあ、最後は太閤の無茶ぶり(朝鮮出兵)もひどかったから心が離れていくのも分からんでもないが。

寺より戦国時代のことばかり考えてしまう私笑。

そこに高速で自転車漕いで私たちを抜いた女子中学生、砂利部分に入ってしまい、危うく転倒しかけて未遂に終わった。ビックリした!! よかったねえ、さすがの反射神経!

竹林と竹垣の雰囲気がいい感じ。ここは「高桐院こうとういん」という塔頭。

細川ガラシャと細川忠興ほそかわただおきのお墓がある。

お墓まで一緒、仲いいよねえ。

いつのまにかキリシタンになってた妻。忠興はバテレン追放令(異国人を追放、キリスト教を廃止)が出た時は焦っただろうね。(高桐院の中には入れてません)

「ささ、裏からどうぞ」と、追われている人を入れそうな裏口。

もう、夕暮れ。いやあ、大徳寺は広い。

通路を突き抜けて大徳寺の敷地を抜けたら、向こう側に「今宮神社いまみやじんじゃ」が。

疫病や政治的に失脚した人のみたまを弔う神社らしい。

徳川家光の側室となったお玉という女性はこの今宮神社を敬愛してやまなかったらしく、このお玉さんは八百屋の娘から将軍の側室になったので、「玉の輿たまのこし」という言葉が生まれたんだって。

面白い!!玉の輿の語源は知らなかったー。なんでも生みの親の京都、すごい。

また、敷地にもどり、ガラシャ関係の写真を撮る。

ガラシャは明智光秀あけちみつひでの三女だったから、本能寺の変の後、お家抹殺で明智家の血筋は絶やされるはずだったけど、忠興が「幽閉」という形をとることで殺すのを免れたらしい。(カッコいい!!忠興)

でも関ヶ原の戦いの折、大阪の屋敷に幽閉されてたガラシャを石田三成が人質にしようと取り囲んだから、ガラシャは死を選ぶ(キリシタンだから自害はできないので部下に刺させた)。

三成と同じ大徳寺にお墓があるのは複雑だろうね。

↑高桐院の入り口。

この高桐院の入り口を眺めていた20代前半の女子2人のうちの1人が、

「細川ガラシャのお墓もすごいけど、ここ出雲阿国いずものおくにのお墓もあるって!そっちの方がやばくない!?」

と驚いていて笑った。

出雲阿国は歌舞伎の創始者。 歌舞伎に興味がある女子なのか、歴史が好きなのか。

「出雲阿国がさ・・」と二人は語り始め、私たちに気づくと、「あ!すみません、どうぞ」とずれて写真を撮らせてくれた。

ガラシャと忠興に浸っていたら、K氏が

「もう、いいやろ、おなかすいたよ」

出た。 こいつの腹の虫はいったん鳴り出したら止まらない。いったんホテルに戻って夜ご飯に繰り出すことにした。

大徳寺の塔頭たちは、いつかまたリベンジしたいなあ。

戦国時代の香りがプンプンして、好きな寺社の一つとなったのでした。

今日の場所「大徳寺大慈院」 京都市北区

@大徳寺大慈院

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